日本有数の活火山「浅間山」がもたらした、他では見ることができない火山現象

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浅間火山は、約10万年前から黒斑火山・仏岩火山・前掛火山の順に形成された3つの火山の総称です。 黒斑火山は、大規模な山体崩壊を起こし、その跡は、長野原町応桑の流れ山や、前橋台地を作る前橋泥流堆積物として残っています。 仏岩火山は、大規模な火砕流(浅間軽石流)を噴出し、六里ヶ原と呼ばれる、浅間高原のもととなる広い大地の形を作りました。 前掛火山は、3~4世紀、1108(天仁元)年、1783(天明3)年と、3回の大噴火をしました。最も新しい天明噴火では、吾妻火砕流、鎌原土石なだれ、鬼押出し溶岩流が流れ出ました。 吾妻火砕流は、山すそに溶岩樹型を作りました。これは、火砕流が巨木の森を埋めつくし、木の幹の焼失した跡が深い縦穴として残ったものです。この現象は世界的にも珍しく国の「特別天然記念物」に指定されています。 また、鎌原土石なだれの中には流下時には高温だった巨大な黒い岩がふくまれ、まれに起こる不思議なできごととされていますが、その発生原因は、まだ分かっていません。




なぜ、火砕流台地から、高原野菜の一大産地に成長できたのか?

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江戸時代、浅間山北麓の農村は、冷涼で火山灰土壌のために稲作はふるわず、雑穀物を中心とした寒村でした。 浅間山の噴出物によって形成された黒土の大地にはススキや笹、カラマツ等の生えた草原が広がり、火山灰特有の成分に生育をはばまれて 農作物の栽培に適さず、「のぼう土」と呼ばれる不毛の原野でした。かつて南木山と言われてきた浅間高原は、明治時代になっても国有地 のままでしたが、北白川宮によって近代的な牧場が開設されたのを契機に、群馬県下最大となる北麓全域の払下げを実現しました。 農地としての拡大は、戦後の開拓事業から始まり、火山灰土壌の改良が進むと、浅間高原は酪農や馬鈴薯、白菜、キャベツなどの農業地帯に 大きく変わりました。さらに大消費地に夏秋キャベツ等を安定供給するため、国の農地造成事業によって農地が拡大され、現在の大生産地が 生まれました。特に浅間山北麓は立地条件の良さも手伝って、新鮮なまま全国各地に野菜を届けるという一大園芸地帯になりました。

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