浅間山がもたらした今までにない大災害と復興の歴史

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1783(天明3)年8月5日(旧暦7月8日)、鎌原村は、浅間山の大噴火にともなう 「土石なだれ」に襲われました。その土石なだれで村全体が流されたり埋まったりしました。 しかし、ただ一つ、高台にあった鎌原観音堂だけが残りました。570人いた村民のうち、 観音堂にたどり着いた93人が助かりました。土石なだれは、その後、泥流となって 吾妻川、利根川、江戸川を流れ下り、銚子や東京湾まで広い範囲に被害をあたえました。 また、火山灰は成層圏まで上がり、天明の飢饉を増大させ、まれに見る大災害になりました。 鎌原は、埋まった土地の上に自助、共助、公助によって集落を復興しました。 噴火災害から約240年もたちますが、鎌原地区では、天明3年の噴火当時のことを 「浅間山噴火大和讃」として毎月、7日と16日に念仏という形で供養し災害を伝え続けています。 また、鎌原観音堂では、当時助かった93人の子孫の方々が中心になり奉仕会という組織をつくり、 災害と復興のあゆみを人から人へ語り継いでいます。




信州街道の不思議。なぜ、3つもの関所が置かれたのか?

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江戸時代、浅間山北麓には関東平野から信州(長野県)へ向かう 「信州街道」がほぼ東西方向に設けられ、大笹、狩宿、大戸の3つの関所が置かれました。 このことは、中山道の裏街道である信州街道が想像以上の賑わいのある重要な街道だった ことを示しています。 この街道は、高崎で中山道から分かれ、北信州への近道としてたくさんの人々が 行き来していました。また、善光寺参りや草津温泉湯治客もたくさんいました。 1783(天明3)年の浅間山大噴火の災害では、埋もれた鎌原村だけで165頭の馬が 流されたと記録されています。馬は主に荷物の運搬に使われていたと考えられ、 人だけでなく商品の流通にも重要な街道だったことが分かります。 しかし、天明の浅間山の噴火により地域一帯は木の生えない荒れた原となって しまいました。そこで旅人の安全を守るため、目印となる「道しるべ観音」が設置され、 今も大切に保存されています。

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