ジオストーリー

浅間火山は、約10万年前から黒斑火山・仏岩火山・前掛火山の順に形成された3つの火山の総称です。黒斑火山は、大規模な山体崩壊を起こし、その跡は、長野原町応桑の流れ山や、前橋台地を作る前橋泥流堆積物として残っています。仏岩火山は、大規模な火砕流(浅間軽石流)を噴出し、六里ヶ原と呼ばれる、浅間高原のもととなる広い大地の形を作りました。
 前掛火山は、3~4世紀、1108(天仁元)年、1783(天明3)年と、3回の大噴火をしました。最も新しい天明噴火では、吾妻火砕流、鎌原土石なだれ、鬼押出し溶岩流が流れ出ました。
 吾妻火砕流は、山すそに溶岩樹型を作りました。これは、火砕流が巨木の森を埋めつくし、木の幹の焼失した跡が深い縦穴として残ったものです。この現象は世界的にも珍しく国の「特別天然記念物」に指定されています。また、鎌原土石なだれの中には流下時には高温だった巨大な黒い岩がふくまれ、まれに起こる不思議なできごととされていますが、その発生原因は、まだ分かっていません。

 1783(天明3)年8月5日(旧暦7月8日)、鎌原村は、浅間山の大噴火にともなう「土石なだれ」に襲われました。その土石なだれで村全体が流されたり埋まったりしました。しかし、ただ一つ、高台にあった鎌原観音堂だけが残りました。570人いた村民のうち、観音堂にたどり着いた93人が助かりました。土石なだれは、その後、泥流となって吾妻川、利根川、江戸川を流れ下り、銚子や東京湾まで広い範囲に被害をあたえました。また、火山灰は成層圏まで上がり、天明の飢饉を増大させ、まれに見る大災害になりました。 鎌原は、埋まった土地の上に自助、共助、公助によって集落を復興しました。噴火災害から約240年もたちますが、鎌原地区では、天明3年の噴火当時のことを「浅間山噴火大和讃」として毎月、7日と16日に念仏という形で供養し災害を伝え続けています。また、鎌原観音堂では、当時助かった93人の子孫の方々が中心になり奉仕会という組織をつくり、災害と復興のあゆみを人から人へ語り継いでいます。 

浅間山の最も新しい大きな噴火は、1783(天明3)年になります。その噴火で浅間山(前掛山)の北麓のすべての植物は失われてしまいました。それから約240年がたち、今では様々な植物が生え育ってきています。何もなくなった大地には、初めにコケやツツジの仲間が生えてきます。噴火で栄養もなく荒れた酸性の土でも生きることのできる植物です。次にアカマツやカラマツなど日なたを好む木が生えてきます。その後、ミズナラやコメツガなど日陰でも育つ植物へ移り替わっていきます。
 浅間山北麓は植物が移り変わっていく様子がとてもよく観察できる世界的にも貴重なところなのです。特に、標高1500m付近に広がるガンコウランやミネズオウの大群落は見ごたえがあります。また、天明3年の噴火であまり影響を受けなかった黒斑山と、大きな影響を受けた浅間山の植物を比べて見ることができることも大きな特徴と言えます。

江戸時代、浅間山北麓の農村は、冷涼で火山灰土壌のために稲作はふるわず、雑穀物を中心とした寒村でした。浅間山の噴出物によって形成された黒土の大地にはススキや笹、カラマツ等の生えた草原が広がり、火山灰特有の成分に生育をはばまれて農作物の栽培に適さず、「のぼう土」と呼ばれる不毛の原野でした。かつて南木山と言われてきた浅間高原は、明治時代になっても国有地のままでしたが、北白川宮によって近代的な牧場が開設されたのを契機に、群馬県下最大となる北麓全域の払下げを実現しました。農地としての拡大は、戦後の開拓事業から始まり、火山灰土壌の改良が進むと、浅間高原は酪農や馬鈴薯、白菜、キャベツなどの農業地帯に大きく変わりました。さらに大消費地に夏秋キャベツ等を安定供給するため、国の農地造成事業によって農地が拡大され、現在の大生産地が生まれました。特に浅間山北麓は立地条件の良さも手伝って、新鮮なまま全国各地に野菜を届けるという一大園芸地帯になりました。

浅間高原は、周囲を火山で囲まれ、群馬の大地の歴史の中では最も新しい地域です。この地域の山々ができた順は、東側にほぼ南北に連なる高間山・王城山・菅峰・浅間隠山・角落山などの火山の列が一番古く、約100万年前とされます。また、この時代には、吾妻川は南方向(長野県側)に流れていたと考えられるのです。
 その後、西側の四阿山、北側の草津白根山が活動を始め、烏帽子火山群(現在の浅間山の西側にある山々)の噴火の中心が西から東へ動いて東側に火山ができた結果、南に流れていた吾妻川がせき止められ、古嬬恋湖ができました。たまった湖の水は、最も標高の低かった古い火山列の王城山と菅峰の間を切るようにあふれ出し、現在のように東へ向かう吾妻川の流れができました。
 美しい景観の名勝として国から指定された吾妻渓谷の深い谷が形作られた秘密は、このような大地ができた歴史と関係しているのです。これは、浅間山が活動を始める前のできごとです。

江戸時代、浅間山北麓には関東平野から信州(長野県)へ向かう「信州街道」がほぼ東西方向に設けられ、大笹、狩宿、大戸の3つの関所が置かれました。このことは、中山道の裏街道である信州街道が想像以上の賑わいのある重要な街道だったことを示しています。
 この街道は、高崎で中山道から分かれ、北信州への近道としてたくさんの人々が行き来していました。また、善光寺参りや草津温泉湯治客もたくさんいました。1783(天明3)年の浅間山大噴火の災害では、埋もれた鎌原村だけで165頭の馬が流されたと記録されています。馬は主に荷物の運搬に使われていたと考えられ、人だけでなく商品の流通にも重要な街道だったことが分かります。しかし、天明の浅間山の噴火により地域一帯は木の生えない荒れた原となってしまいました。そこで旅人の安全を守るため、目印となる「道しるべ観音」が設置され、今も大切に保存されています。

浅間山の約10万年にわたる火山活動により広大な高原台地ができました。標高1100m前後の気候は、高原の独特の涼しさと空気のさわやかさがあります。森や林が広がり、鳥のさえずりが聞こえ、草花が咲きほこり蝶が舞い、リスなどの動物たちの姿もよく目にすることができます。
 この浅間山北麓の高原は、かつて南木山といわれ、農作物を作るには適さない土地でしたが、村人にとって薪や炭、馬など家畜の餌である草を得るための大切な生活の場所でした。大正時代になると軽井沢から草津温泉を結ぶ草軽電鉄が開通し、この高原の良さを求め別荘が建ち始めます。個人だけではなく、大学関係者も訪れ、大学村と呼ばれる地区もでき発展してきます。法政大学村は、草軽電鉄の地蔵川停車場を北軽井沢駅として駅舎を寄贈しました。また、自動車専用道路ができ、別荘地が広がりました。浅間山北麓高原の近くには2000m級の山々があり自然景観がとてもよいところです。首都圏から近い距離にあり、別荘地としての好条件がたくさんそろっています。最近では定住する人も増えてきています。