E.鎌原エリア

災害と復興がつなぐ人々の営み

鎌原土石なだれによる埋没集落

鎌原地域には、土石なだれに埋まらずに残った鎌原観音堂がある。 観音堂は、被災前に建立されたもので、現在も大切に保存されている。当時、お堂は集落の高台にあり、 ここに逃れた人たちなど93名が助かり、477名が落命した。被災後、お堂には15段の石段が残り 「天明の 生死をわけた 十五段」と言われてきた。生き残った93名は、この地を離れることなく、 周辺住民の援助を受けつつ復興を成し遂げた。この際、身分・貧富の差を乗り越え、全員家族・全員平等の 復興基盤を創って新しい家族を構成した。妻を亡くした夫には夫を亡くした妻を、子を亡くした親には親を亡くした子を・・・ これが新しい家族である。住民の大半を失ってもこの地に留まり続けたことは、 人と土地(大地)とのつながりの深さを感じさせるが、身分制度のあった時代に、 新しい家族を構成したこのような知恵と決意には驚かされるものがある。

災害と復興がつなぐ人々の営み

埋没集落は、1979(昭和54)年から数年間発掘調査が実施された。 調査では、一般家屋と寺社の発掘、観音堂石段の発掘が行われた。家屋の発掘では1,500点の生活用品が出土したが、 その内容は想像を超えるものだった。ガラス(ビードロ)の鏡、べっ甲の髪飾り、漆塗りのくし、 印鑑、佐賀の伊万里焼など、予想外の豊かな生活の様子がタイムカプセルにように現れた。 石段は、120~150段あったとの伝承があった。調査団は、地形と土石なだれ堆積物の深さから、 50段を目安にその位置を掘った。すると、石段は50段で終わり、49~50段の位置から女性2遺体が出土した。 遺体は、髪の毛が残る生々しい状態だった。詳しい調査の結果、若い女性が腰の曲がった年配の女性を 背負った形で土石に飲み込まれたことが判明した。120段の言い伝えは違ったが、「生死をわけた十五段」 は伝承通りの衝撃的な結果となった。発掘当時は、このニュースが全国に報じられ、東洋のポンペイなどと注目された。 「若い女性は、一人なら助かったかも知れない。」「なぜ、鎌原の人々はもっと早く避難しなかったのか。」など、 この地を訪ねた子どもたちは疑問をもつ。鎌原地区は、火山災害への向き合い方と、 緊急時の人として処し方を教えてくれているのである。

サイト紹介

E-1.鎌原村・鎌原観音堂

鎌原観音堂は、1783(天明3)年8月5日(旧暦7月8日)に発生した土石なだれによって鎌原村全体が埋まってしまった際に、 高台にあり唯一残った建物である。土石なだれに気づいた村民の一部が観音堂に避難して助かったため、観音堂は村民を守った 奇跡の地として知られている。昭和54年の発掘調査で、当時あった50段の石段の最下部に2名の女性の遺体が発見され、 鎌原で起きた災害の悲惨さを伝える。また、すべてを失い離散する運命にあった村民を周辺の有力者が救済するとともに、 家族の再編成を行って埋没した集落の上に現在にも続く集落を復興したという稀有な復興過程などは、歴史的に見ても極めて 価値の高い史跡である。 これらのことは、隣接する嬬恋郷土資料館で詳しく知ることができるが、観音堂には、歴史を受け継ぎ観音堂を大切に守る 「鎌原観音堂奉仕会」の人々が常駐(2月を除く)して、来訪者に鎌原の歴史を語り継いでいる。

E-2.鎌原用水

鎌原村は、信州街道の宿場であった。鎌原用水は鎌原宿の中央を貫流し、下の田畑まで流れている。 この用水の水源は、鬼押出し溶岩の末端部の湧水であり、水源地から鎌原宿まで約8kmの用水路が引かれている。 以前は道路の中央を通っていたが、昭和33年に設備が整った水道となり、現在は道路の脇を流れている。 鎌原は井戸による地下水搾取が困難だったため、用水は重要なものであった。1783(天明3)年の噴火災害における 鎌原集落の復興では、この用水の通る道に面して、東西に十間ずつ短冊状に平等に地割がなされ復興された。 当ジオパークエリアに湧水は多いが、鎌原用水は特に浅間山の火山活動による人の暮らしに大きな影響を与えてきた貴重な史跡の1つである。

E-3.嬬恋高原キャベツ

「高原キャベツ」 で有名な嬬恋村は、標高700~1,400mに広がる日本一の夏秋キャベツの産地である。 8月~9月の最盛期には、1日10万~20万ケース、年間1,000万ケース以上が全国各地に出荷されている。その時期、 嬬恋村産のキャベツの売上は全国の総出荷量の半分を占め、名実ともに「日本一のキャベツ産地」と言える。 キャベツは高温や干ばつに弱く、成育適温は15℃~20℃とされる。これは嬬恋村の6月~9月の平均気温に合致し、 昼と夜の温度差が大きい事が、美味しいキャベツを作り出している。また、噴火による火山灰などの噴出物が積もった土は、 水はけがよく農地に適している。火山灰や溶岩にはミネラルが含まれており、それらが長い年月をかけて土壌に浸み込み、 肥沃な土地を形成している。約12℃の平均気温、都市近郊の立地条件が揃ったことで、キャベツ生産地としての発展を 支えたと言われている。浅間火山の活動により形造られた高原地形は、キャベツ栽培に適する大地を作り、 大型機械(トラクター)使用の農業を可能にしている。

E-4.浅間軽石流

黒斑山の山体崩壊の後に活動を始めた約1万3千年前の仏岩の噴火は、 浅間山の火山活動の中でも最大規模の噴火で、降下軽石や火砕流を何度も噴出した。 吾妻川右岸の嬬恋村大笹地区から袋倉地区にかけてや長野原町の与喜屋地区には、 この時の噴火による厚い火砕流(軽石流)堆積物が吾妻川の浸食により露出した箇所が見られる。

E-5.大笹火砕流(追分火砕流)

前掛山の噴火で最大の噴火であった1108(天仁元)年の噴火では、 大量のマグマが火口からあふれ出て、スコリア質の火砕流として山腹斜面を南北に流れ下った。 これを追分火砕流というが、特に北麓に流下した火砕流は大笹火砕流とも呼ばれる。 この火砕流は大規模で、南北の広範囲を覆い尽くしたため、ジオパークエリアの様々な場所で観察することができる。 当地域の大地の歴史を語る上で欠かせない一大事件であった。

E-6.古嬬恋湖

鎌原大笹エリアには「古嬬恋湖」と呼ばれる過去の湖の堆積物が点在しており、 その地層を「嬬恋湖成層」と呼んでいる。これらの湖成層の分布域は、東西11.5㎞、南北9㎞になり、標高差は300ⅿを超える。 成因としては、烏帽子火山群の火山活動によって当時南流していた吾妻川が堰き止められてできたという説が有力で、 湖成層の堆積物からは、火砕流や泥流が見られ、当時の火山活動が活発であったことが推察される。 また、ゾウの歯や花粉の化石などから、当時の生物環境の様子を知ることができる。 火山が噴煙を上げ、ゾウがいる情景をイメージすることで、ジオを学ぶ楽しさを教えてくれる魅力的なサイトである。

E-7.大笹の関所・抜道の碑

大笹の関所は江戸時代に、険しい山岳地帯の要衝を結んだ仁礼街道の通行人を取り締まるために設置された。 現在は復元された門扉があり、大笹の宿場町のかつての賑わいを伝える史跡となっている。 また、当時の関所は特に女性の通行には厳しかったため、関所を迂回する「女道」と呼ばれる抜道が存在した。 抜道の存在を示すために建てられた石碑は今も残っており、当時の庶民の暮らしを知ることができる貴重なサイトである。

E-8.鎌原城址

鎌原城は、吾妻川の右岸、鎌原集落の西側の浅間軽石流(浅間山第一小諸軽石流;平原火砕流;約1万3,000年前)の 断崖に築かれた城で、吾妻川崖上の要害の地にあった。城郭は、南北約400m、幅150m、総面積36,000㎡で、 南から三の丸、二の丸、本丸、東曲輪、笹曲輪となっていた。 室町時代から江戸初期にわたって三原庄に勢力のあった鎌原氏が1397(応永4)年に築城したと伝えられており、 浅間山の火山活動によって生じた天然の要害を利用した城として、当地域で活躍した鎌原氏の栄枯盛衰の歴史と合わせて貴重なサイトである。