C.北軽井沢エリア

火山の上に栄えた栄華の歴史とおもかげ

大地の活動

北軽井沢エリアでは、前掛山の三大噴火のうち、特に1108(天仁元)年の噴火による堆積物が見られる。 また、黒斑山の山体崩壊堆積物がいたるところに点在している。 また、大正から昭和初期にかけて旧草軽電鉄が運行していたほか、浅間山をはじめとする高原地域の気候風土を求めて 首都圏から多くの人が別荘を建設した一大別荘地としても発展してきた。人々の暮らしに根差したジオサイトが点在しており、 地質学としてのみならず、地域産業や歴史的な視点からジオストーリーを語るのに有益なサイトが多い。

サイト紹介

C-1.浅間大滝・魚止めの滝

浅間大滝は吾妻川の支流・熊川にかかる幅約2m、高さ約10mの北軽井沢周辺で最大の滝である。 魚止めの滝は、浅間大滝の下流に位置し、落差は約10mで3段にわたって水が流れ落ちている。熊川の最上流は、 群馬県と長野県の境付近の標高約1,300mのあたりで、霧積火山群の西側を流れており、支流も含めて急流となっている。 北軽井沢周辺で最大の滝と呼ばれる浅間大滝は、高原リゾートの涼しげなムードに適した清らかな滝である。 豊富に流れ落ちる水音も静寂な林に吸い込まれるようなしっとりとした風情がある。 浅間大滝の下流5分程の場所にある魚止めの滝は、「魚が登りきれないほど激しい滝」という名前の由来通り、 3段にわたる落差が大迫力の滝である。 秋には鮮やかな紅葉や、黒い岩肌と白い水しぶきとのコントラストが美しい。

C-2.北軽井沢駅舎

旧北軽井沢駅舎は、新軽井沢から草津温泉間を結んだ草津軽便鉄道の約22あった駅のうち、 当時の姿を唯一現在まで留めている駅舎である。 草津軽便鉄道はスイスの登山鉄道を模して1915(大正4)年に誕生した。当初の目的は、草津温泉をはじめ 沿線の旅客輸送とともに、物資および木材、薪炭、硫黄などの貨物を輸送し、地域の発展に努めることだった。 開業時は、新軽井沢から小瀬(後の小瀬温泉)までだったが、順次草津まで路線を延長し、蒸気機関車から 電気機関車へと切り替え、1926(大正15)年には、全長55.5kmの全線が開通し、片道約3時間半かけて走行した。 終戦直後の1946(昭和21)年には、46万人という乗客を記録したが、相次ぐ台風被害や急速な自動車輸送の発展により、 草軽電鉄は1962(昭和37)年に廃線となった。 北軽井沢駅は、開通当初の1918(大正7)年は「地蔵川停車場」といわれていたが、1928(昭和3)年地蔵川地区に 法政大学村が開村したことに伴い、1929~1930(昭和4~5)年に同大学村が駅舎を新築し、草津電気鉄道株式会社に寄付し、 駅名を軽井沢の北側に位置していたため、「北軽井沢駅」と改めた。駅舎正面玄関の欄間(らんま)には、駅舎を寄贈した 法政大学のイニシャル「H」の文字がデザインされ、白く並んでいる。 この北軽井沢駅舎は、その土地を知る上で重要な建物であり、また広く親しまれているため、「国土の歴史的景観に 寄与しているもの」に該当すると考えられ、2007(平成18)年11月29日に国の登録有形文化財の指定を受けた。

C-3.六里ヶ原の道しるべ観音

江戸時代、浅間山北側に広がる六里ヶ原は旅人の難所であった。そのため、地元の人々によって、 分去茶屋を基点に、沓掛、狩宿、大笹の各街道沿いに道しるべ観音(丁石観音)が建てられた。 道しるべ観音は、三街道方向の1丁(約109m)ごとに1番~33番まであったとされる。現在は長野原町の北軽井沢にある 桜岩地蔵堂に集められ安置されているが、当時の観音仏は時代と共に散逸し全部は揃っていない。平成3年に 地元有志の努力により、不足した観音仏が整備された。丁石観音が各33体で計99体あり、これに基点観音を加え百体観音となる。 地蔵堂のお堂には「桜岩地蔵尊」が祀られている。桜岩地蔵尊像の蓮華台に寛延四年と書かれており、もと六里ケ原の 上信国境にあったといわれ、1783(天明3)年の浅間山噴火により埋没したが後年路傍に再建され、道行く旅人が小石を 積上げてお参りしたという。1928(昭和3)年8月、現在の地に移し、お堂を構築して祭祀するようになった。

C-4.浅間家畜育成牧場

浅間牧場は、北軽井沢の別荘地の中心街に近い位置にある、標高1,300mに広がる800haの県営牧場で、 1882(明治15)年に北白川宮能久親王によって放牧場として開設された。牧場は火山体の上に建てられており、 周辺には浅間山の噴出物が堆積している。 ここでは、北海道北部とほぼ同じ中央高原型気候の特性を生かし、放牧期間中は約500頭、冬は約300頭を県内の酪農家より 預かり飼育している。6月中旬にはレンゲツツジが見頃を迎え、新鮮な空気を味わいながら爽やかな高原の中を自由に 散策することができる。昭和の初期に大ヒットした歌謡曲「丘を越えて」は、この浅間牧場がモデルになっており、 牧場内に「丘を越えて」の歌碑が建てられている。また、日本初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」のロケ地になったことでも知られている。

C-5.流れ山

浅間山の北側の裾野の応桑に「流れ山」と呼ばれる地形がある。応桑地域を中心に点在しており、 輝石安山岩質の岩塊と粒の細かい火砕物質が雑然とまじりあったもので、浅間火山の軽石流や降下軽石層、 火山灰層でおおわれている。約2万4千年前に黒斑山が大規模な山体崩壊を起こして岩屑なだれが発生し、 応桑方面に大小の特徴的な丘が残った。最も大きなものは「馬見塚」であり、東西300m、南北400m、比高40mにおよぶ。 これらの表面は、軽石や火山灰の層がのり、かなり厚い黒色土壌が出来ている。

C-6.古瀧

古瀧では、浅間山の縄文中期の噴火の際にこの沢を流れ下ったとされる古瀧火砕流が露出している。 また、周辺の古瀧花木野草苑では、失われつつある浅間高原に自生する山野草や他地域の山野草など数百種類の野草が点在している。