B.鬼押出しエリア

火山噴火が生んだ奇景と植生の移り変わり

大地の活動

4世紀頃の噴火では、降下軽石と黒豆河原溶岩、黒豆河原南火砕流、下の舞台溶岩などが噴出した。 下の舞台溶岩は、浅間白根火山ルートのする脇に台地状の地形を作っており、それが「舞台」の名称にもなっている。 1108年の噴火は、前掛火山のこれまでの活動の中で最大級だったとされている。 降下軽石と追分火砕流・大笹火砕流、上の舞台溶岩を噴出した。 大笹火砕流の流れは2つに分かれ、西側は嬬恋村大笹地域で吾妻川が浸食した凹部に流れ込み、10m以上の厚さで堆積して 河岸段丘状の地形を残した。 東側の流れは、黒豆河原と呼ばれる山麓一帯に広がって堆積した。 1783年の噴火は、降下軽石と吾妻火砕流、鬼押出し溶岩などを噴出した。また、鎌原土石なだれが発生し、 群馬県側嬬恋村、長野原町の複数の集落を飲み込み、吾妻川・利根川に流入して下流域まで含め1,500名を超える被災死者を出した。

動植物の特徴

鬼押出しエリアは、吾妻火砕流や鬼押出し溶岩流により覆われ、火山荒原から植生回復のあゆみがスタートした。 付近一帯は、オンタデ・コメススキ群落、ガンコウラン・クロマメノキ・ミネズオウ群落、アカマツ天然林、カラマツ天然林など、 多様な群落が存在する。同じ標高でも溶岩地と砂礫が動き風当りの強い黒豆河原では植生回復に差が出てきている。

サイト紹介

B-1.鬼押出し溶岩

「鬼押出し溶岩」は、1783(天明3)年の浅間山噴火の際に流下した溶岩流で、山頂付近では 最近の噴火の砕屑物に覆われているが、中腹以下では、樹木もあまり生えておらずに今なお当時のままの状態が 残されており、浅間園や鬼押出し園で見られる塊状溶岩と呼ばれる表面がゴツゴツとした大小の岩塊が一面に広がる光景は、 見る者に圧倒的な印象を残す。 この流出当時の様子が観察できる溶岩は、その生成過程が火山学研究の重要な素材であり、来訪者が1783(天明3)年の噴火の メカニズムや周辺への影響等について、火山のエネルギーを感じながら学習したり、ツーリズムとしてこの稀有な光景を 見学することでも、利用価値の極めて高い場所である。

B-2.吾妻火砕流

北麓に大きな被害をもたらした1783(天明3)年の噴火では吾妻火砕流が発生し、六里ヶ原を通って 軽井沢パルコール村方面へと流下した。比較的新しい時代の火砕流堆積物であるため、その堆積面や断面をいたる ところで観察することができ、火砕流の危険性と火砕流がもたらした地形のダイナミックな変動を知ることができる。

B-3.浅間山溶岩樹型

「浅間山溶岩樹型」は、1783(天明3)年の噴火による吾妻火砕流が森林地帯に流れ込み、冷え固まったあとで、 1952(昭和27)年に国の特別天然記念物に指定された。群馬県内の特別天然記念物の指定は、3件だけで(他2件は尾瀬、カモシカ) あり、地質・鉱物の特別天然記念物としては全国的にも貴重である(関東地方で2件、全国で20件のみ)。 溶岩樹型は、通常、粘り気の少ない玄武岩質の溶岩が森林を覆う際にできる場合がある。しかし、浅間火山の噴出物は安山岩質であり、 かつ火砕流が森林地帯に流入してできた樹型が残ることは極めて珍しい現象とされている。 雑木林にいくつもの古井戸のような溶岩樹型が散在し、見た目に珍しいだけでなく、浅間山の火山活動との因果が明確で、安山岩質の 溶岩樹型として学術研究にも重要な資源となっている。

B-4.蜀山人の碑

1783(天明3)年の噴火の際、その救助に奔走し、私財を投げ打って物心両面にわたり、 災害復旧に大きな貢献をした大笹宿問屋の主人黒岩長左衛門(大栄)は、当世、狂歌の第一人者であった 蜀山人(四方赤良)に、碑の撰文(せんぶん)と揮毫を依頼し、災害碑の建立を志した。しかし、長左衛門は 程なくして亡くなり、その実現は中断してしまったが、その子佗澄は1816(文化13)年に亡父十三回忌の 手向けとして、大笹宿の中程の長左衛門宅の向かい側、山裾の急斜面の一部を削平し、碑を建て 「大笹駅浅間碑」とした。碑は2mに達する大きな安山岩の自然石で、その表面には和歌を交えた12行にわたる 本文と記年銘、そして蜀山人、大栄の名を記し、さらに佗澄の1文を添えている。

B-5.上の舞台溶岩

1108(天仁元)年の噴火時に「大笹火砕流(追分火砕流)」とともに噴出した溶岩が 「上の舞台溶岩」である。先端部の厚さは40m以上あり、「鬼押出し溶岩」の下にもあることが確認されている。 近年、この溶岩と火山砕屑岩の互層は通常の溶岩ではなく、火口付近にあった溶結火砕丘の一部が流動化し、 流下したものという論文が発表されている。露頭では溶岩が下位の丸みを帯びたキャベツ状の本質岩塊層に 移行している現象が認められること等から、これらを溶結火砕岩としている。また、溶岩にいついても 火砕成溶岩という新しい地質用語が使われるようになり、火山活動を新たな視点で研究しようとする方向が注目されている。

B-6.下の舞台溶岩・黒豆河原溶岩

4世紀頃の噴火によって流下したとされる溶岩流が「下の舞台溶岩」「黒豆河原溶岩」である。 浅間Cテフラをもたらしたこの噴火では、火砕流の噴出に続いて、溶岩が流下したと考えられている。

B-7.六里ヶ原の火山荒原

現在の浅間山を形成する黒斑山、仏岩、前掛山の各年代での火山活動で、火砕流、溶岩流、 岩屑なだれなどが繰り返し堆積し、植生が未発達な火山荒原を形づくっている。浅間白根火山ルートには、 駐車可能な六里ヶ原休憩所があり、そこからは荒涼とした広い大地を一面に見ることができる。 本サイトでは、浅間火山を見上げ、その生成史の概要を振り返ることができる。一番西側の黒斑火山は、 山体崩壊した崩壊崖の一部が見られる。目の前は最も新しい前掛火山になるが、東側尾根の途中までは 仏岩火山の斜面になる。仏岩火山を基盤として、前掛火山が生長したことが分る。また、その東方には 小浅間溶岩円頂丘が見える。小浅間山は半円形の特有な形であり、成層火山との比較で火山の形態を学ぶのに適する。

B-8.シャクナゲ園

浅間高原しゃくなげ園は、不可能と言われたシャクナゲ栽培に日本で初めて成功した アララギ園(造園会社)の坂井敬一氏が、苦労の結晶であるシャクナゲを嬬恋村に寄付し、村民が ボランティアで植樹を手伝うなどをして5年がかりで造園された嬬恋村営の公園である。 坂井氏は浅間山に自生するシャクナゲから種を採り、試行錯誤の末に10年という年月をかけてシャクナゲを育てた。

ビジターセンター.鬼押出し園

鬼押出し園は、1783(天明3)年の浅間山の大噴火の際に流れ出た溶岩が固まって作られた奇形な岩場景観を四季を通じて楽しむことができる浅間高原の名勝地である。火口で鬼があばれて岩を押し出したという当時の人々の噴火の印象が、この名前の由来となっている。
園内中央に位置する東叡山寛永寺別院「浅間山観音堂」は、浅間山噴火の犠牲になられた霊を供養するため、1958(昭和33)年5月に建立され、寛永寺伝来の聖観世音菩薩が厄除観音として祀られている。 毎月18日は御開扉として、本堂の扉が開かれ行事が行われる。また、敷地内には移設された蜀山人の碑があり、噴火被害の伝承と心構えを記した震災のシンボルとなっている。