08 高原を流れる川が見てきたもの ― F 吾妻川エリア

上空から見た吾妻川
信州街道の国道144号線を東に向かうと、長野原町に入った辺りから国道145号線になります。145号線をさらに東へと向かうと、八ッ場ダムのえん堤付近から長いトンネルとなっています。この地点の吾妻川は川幅が狭くなり、両岸が切り立った高い崖となっています。ダムはこの地形を利用して作られました。ダムえん堤の下流が長野原町とその隣の東吾妻町にまたがる吾妻峡です。浅間・烏帽子火山群の成長に伴ってこの地を流れるようになった吾妻川が、長い年月をかけて固い岩盤を削り、現在のような見事な景観を作り出しました。一方で、この流れは浅間山の噴火によって生じた様々なものを流してきた歴史があります。浅間山北麓から吾妻川が流してきたもの、そしてその出口となった吾妻峡。悠々と流れる吾妻川は一体何を見てきたのでしょうか?

CONTENTS

① 古嬬恋湖から流れ出た先には

吾妻峡丸岩

吾妻川にとって最も大きな出来事は、今から数十万年前に起こりました。浅間・烏帽子火山群の成長に伴う流路の変更です。南流していたと考えられている吾妻川の流れは堰き止められ、巨大な古嬬恋湖をつくったのち、現在のように東へと流れを変えたのです。このように吾妻川は日本海に流れ込んでいたと考えられていますが、流路変更のあとは利根川へと注ぎ、太平洋に流れ出るようになりました。流路が変わってから十万年以上が経過する中で、比較的固い岩盤であった吾妻峡付近を侵食し、両岸に崖をつくっていったのです。
吾妻峡の少し上流に、八ッ場ダムができました。国土交通省の八ッ場ダム建設事業によって水没する地域の生活再建と地域振興を目的に建設された道の駅八ッ場ふるさと館からは、ベレー帽を被ったような少し変わった形の岩峰を見ることができます。丸岩と呼ばれています。丸岩は、菅峰火山の溶岩の一部と考えられています。縦に何本も柱が束ねられて立っているような形の岩肌と、その上に少し傾けておしゃれに被ったベレー帽のような林がのっています。戦国時代にはこの岩峰の頂上に城が築かれていたこともありました。まさに天然の要害であったことでしょう。丸岩は長野原町のシンボルになっています。

② 多くのものを流してきた川

吾妻川は鳥居峠付近から湧き出る清らかな水を流し続けてきました。しかし、浅間山で大噴火が起こると、浅間山から流れ出た噴出物やその被害を受けた人々の暮らしをも流してきました。浅間山やその山麓から流れて来たものは、まず、浅間山の北側を西から東に流れる吾妻川に流れ込み、吾妻川の流れにのってさらに下流へと押し流されていったのです。
今から約2万4千年前に発生した黒斑山の山体崩壊では、山をつくっていた土石が大量に吾妻川に流れ込み、吾妻川が合流する利根川を流下、傾斜が緩やかになる前橋付近で堆積させて前橋台地の基礎をつくりました。
その後、1万5千年〜1万3千年前に発生した仏岩火山の噴火は浅間山史上最大となり、浅間高原の基礎をつくるほどの大規模な火砕流が流れました。吾妻川を挟んでさらに北側にも大量の火砕流堆積物を積もらせていることを考えると、吾妻川にも膨大な量の火砕流が流れ込んだと考えられます。
さらに、1108(天仁元)年の前掛火山の噴火は前掛山の時代になってからは最も規模の大きかった噴火で、このときにも浅間山の北麓・南麓に大量の火砕流を流下させました。追分火砕流(北麓に流れた火砕流をジオパークでは大笹火砕流とも言う。)と呼ばれています。正確な記録は乏しいのですが、このときの火砕流も大量に吾妻川を流下したことでしょう。そして、1783(天明3)年の前掛火山の噴火では、吾妻火砕流が流下しただけでなく、鎌原土石なだれが北麓に流れ下りました。大量の土砂や岩石を含む流れが吾妻川右岸の高い崖から吾妻川に流れ込み、水を含んで泥流となった流れは流域の集落を飲み込みながら利根川へ流下していったのです。八ッ場ダムの建設地から当時の人々の生活用品が出土しており、鎌原土石なだれは火山の噴出物だけでなく、多くの人々の暮らしをも押し流していったことがわかります。
土石なだれで最も多くの人命が失われたのは鎌原集落ですが、周辺の複数の集落も飲み込みました。現在の長野原町与喜屋地区にあった新井村も、このときの泥流によって全村(6軒)が埋没し2名の方が亡くなったとされています。1980(昭和55)年に町の総合グラウンドの整備工事中に旧新井村の供養塔や石臼が発見されました。長野原町の大字長野原にある大洞山雲林寺も、天明の噴火の泥流によって埋没しました。現在の雲林寺はその後地元の人たちによって再建されたものです。当時の雲林寺の住職は、過去帳だけを持ち出して何とか逃げ延びることができました。住職が持ち出した過去帳から、この地で流死した人々のことが分かりました。また、小宿村の常林寺も土石なだれに流されてしまいました。このとき流された寺の梵鐘は、1910(明治43)年に発生した吾妻川の水害の際に15㎞も下流の川原畑の河原で発見されました。さらに、梵鐘の上部についていた金具 「竜頭」 が嬬恋村今井の河原で1983(昭和58)年に発見されました。流出後、ちょうど200年後の梵鐘と竜頭の再会でした。その梵鐘は浅間火山博物館に、竜頭は嬬恋郷土資料館に展示されています。

浅間軽石流流れ山柱状節理雲林寺常林寺
吾妻川は浅間・烏帽子火山群の成長によって流路を変更させられ、大噴火によって火山から流れてくる噴出物を押し流したり、火砕流台地や岩盤を削って渓谷をつくったりしてきました。さらに、火山からの噴出物が巻き込んだ人々の生活をも流していった歴史がありました。そして今もなお、満々と水を湛え、その清らかな流れを見せているのです。

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