07 大地との共生を選んだ地 ― E 鎌原大笹エリア

33回忌供養塔解説看板
浅間山北麓ジオパークのエリア内に入ると、いたる所で 「天明三年」 「浅間焼け」 「天明噴火」 「鬼押出し」 「土石なだれ」 といった文字の書かれた看板などを目にします。これらは1783(天明3)年に発生した浅間山の噴火やその現象のことを指していてます。噴火から200年以上が経過した現在でも、この地では天明3年の噴火のことが深く刻まれ、残されているということがわかります。
鬼押ハイウェーを走ると鎌原という地名が出てきます。嬬恋村にある地区の名称です。この鎌原地区は浅間山の噴火と特に深いかかわりがあるようですが、一体どのようなことがあったのでしょうか?

CONTENTS

① 山から流れて来たもの

浅間山北麓の地域は、常に浅間山などの火山活動の影響を受けてきました。烏帽子火山群が東へ東へとマグマの出口を求め、火山の列が東に延びてきたことによって、南流していた吾妻川が閉塞し、巨大な古嬬恋湖をつくり、実に嬬恋村の面積の1/3を浸水させてしまいました(古嬬恋湖の詳細は、 「03-② 今はなき巨大な湖の盛衰」 をご覧ください。)。数十万年前の話です。その後約10万年前頃から、浅間山は黒斑火山・仏岩火山・前掛火山といった火山体をつくりながら成長しています。大噴火のたびに火砕流が山麓を埋め、軽石や火山灰を積もらせました。また、山体崩壊によって大量の土石が山麓一帯に流れ出したり、土石なだれが流れ下ったりするなど、北麓地域は何度も火山噴火に襲われました。

② 独特の地形と向き合った武将たち

鎌原城址大笹関所大笹関所設置 解説看板

人々が浅間山北麓地域に暮らし始めた時代はいつだったのでしょう? 浅間山北麓地域を開拓した最初の記録は、1108(天仁元)年の浅間山噴火後の平安時代末期にさかのぼります。一人の修験者が嬬恋村の万座鹿沢口駅の付近に移ってきました。当時、信州に勢力をもっていた海野氏の跡取りの一人であった海野幸房です。この時代、浅間山の天仁噴火によって北麓一帯は荒廃し、ほとんど人がいなかったと想像されますが、幸房は下屋将監と名を改めてこの地に居を構え、子孫たちに開拓させた土地を次々に分村して譲り渡していきました。下屋将監は度重なる戦争に嫌気がさしてこの地に移住し、修験道の信心の力で国を治めようとしたのです。
分村した家の中に、鎌原氏がいました。下屋将監の孫にあたります。この鎌原氏は武力を持ち、次第に勢力を伸ばして三原庄の地頭となり西吾妻第一の豪族に成長しました。1397(応永4)年には鎌原城を築きました。鎌原城は吾妻川の右岸の浅間軽石流の断崖で、吾妻川崖上の天然の要害の地に築かれました。火砕流台地を吾妻川が削ってできた自然の高い崖が、城の防御に適していたためです。その後も鎌原氏は、真田氏や武田氏の後ろ盾を得ながら近隣の勢力と争いを繰り広げました。江戸時代には真田・沼田藩の家老となり、沼田藩改易後は大笹の関所の関守となって明治維新に伴う廃関まで関守を務めたのです。
大笹の関所は、江戸時代に北国街道の脇街道であった信州街道の通行人を取り締まるために設置されました。信州街道は善光寺平から菅平を越えて高崎に至る道で、険しい山岳地帯を通るため起伏がありましたが、北国街道を抜けるよりも時間と費用が軽減できるため、多くの人々の往来がある街道でした。周辺には宿場町が形成され、人々で賑わっていたことでしょう。1662(寛文2)年に沼田藩主の真田伊賀守が幕府に申請して大笹の関所が設置されました。現在設置されている大笹の関所跡は1946(昭和21)年に復元されたもので、2014(平成26)年に御関所橋の架け替えに伴って移転されました。
大笹の関所は江戸警備のために設けられたもので、江戸への武器の持ち込みと、参勤交代で江戸在住を義務付けられた諸大名の妻や娘の江戸脱出を防ぐ意図があったため、特に女性の出入りは重点的に取り締まられました。そこで、女性が関所を通らずに信州街道を通ることができる抜け道・通称女道がありました。大笹宿の手前から南の浅間山麓を迂回して長井河原で街道に合流する道でしたが、広大な浅間山麓の密林の中を通過するこの道は、地理に疎い旅人には危険で不安なものでした。こうした女道の路傍に、1852(嘉永5)年、一基の石碑が建てられました。「揚雲雀 見聞てここに 休ふて 右を仏の 道としるべし 正道」 と記されており、手形のない通行人に善光寺へ抜ける道を暗示する 「道しるべ」 でした。この石碑は今でも残されています。

③ 浅間山とともに生きる村

鎌原村・鎌原観音堂みごだんご作り生活水として使用されていた鎌原用水

鎌原村は、江戸時代には信州街道の宿場として栄えました。しかし、1783(天明3)年、浅間山が大噴火を起こしました。8月5日(旧暦7月8日)には、大規模な鎌原土石なだれが発生し、この鎌原集落一帯を襲ったのです。当時の鎌原村の人口570人のうち、477人が亡くなる悲惨な災害となってしまいました。鎌原村のほぼすべてが土石なだれに埋まってしまいましたが、唯一残った建物が鎌原観音堂です。土石なだれに気付いた一部の村民は高台にあったこの観音堂に駆け上って助かりました。1979(昭和54)年の発掘調査で、観音堂に登るための石段50段のうち、下部の35段が土石なだれに埋もれていることがわかりました。そして、石段の最下部から、一人がもう一人を背負う形で女性2名の遺体が発見されました。高齢の女性を背負って観音堂に避難しようと石段までたどり着いたところで土石に襲われてしまったものと推察されています。
わずか93名の生き残った村民は、大笹村の名主・黒岩長左衛門の 「このような大災害に遭っても生き残った93名は互いに血の繋がった一族だと思わなければいけない」 の言葉により、親族の誓いを結んで、家柄や身分の差を取り払い、新たな家族を編成して村の再興を始めました。鎌原村は、このような骨肉の思いで埋まった鎌原集落の上に今の集落を復興させたのです。鎌原観音堂には、歴史を受け継ぎ、観音堂を大切に守る 「鎌原観音堂奉仕会」 の人々が2月を除く毎日常駐し、来訪者に浅間山とともに生きてきた鎌原の歴史を語り続けています。
天明の噴火のあと、鬼押出し溶岩の先端部から、お湯が湧き出してきました。湧水が溶岩の熱で温められたものでしたが、黒岩長左衛門は、鎌原や周辺の被災集落復興のため、そのお湯を大笹に引湯して、温泉として利用しました。20年ほどで溶岩の熱が冷めて水となってしまいましたが、この間、災害で疲弊した人々の心を相当癒すことができたことでしょう。水となったあとも、この湧水は鎌原用水として利用され、大いに役立ちました。復興途上の鎌原村では、井戸による地下水の調達が困難であったため、この用水は大変貴重なものでした。鬼押出し溶岩の末端部から約8㎞の用水路を引き、用水の流れる道路に面して東西に十間ずつ短冊状に地割がなされました。用水は飲み水や煮炊きの水、洗顔、洗濯、洗い物などの生活用水として重宝しただけでなく、宿場町であった鎌原村にとっては馬の飲み水にも使用され、さらに農業用水や水車による農作物の脱穀など、ありとあらゆる用途に利用され、鎌原村の村民にとっては命の水だったのです。現在でも鎌原村までの用水はそのまま林を抜ける渓流で、鎌原村に入ってからは水路が整備され、農業用水や防火用水として大切に使われています。

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