06 湯と自然を求めて ― D 湯の丸エリア

百番道しるべ観音 案内看板
浅間山南麓の国道18号線と浅間山北麓の国道144号線をつなぐ県道94号線を走ると、湯の丸山東側の県境付近で地蔵峠を越えます。急峻な山岳地帯を越える険しい峠道ですが、この県道には、道路わきに百体の観音が並び、古くから人々の往来があったことがうかがえます。この道は古くは 「湯道」 とも呼ばれていました。一体どのような人々が、何を求めてこの険しい峠を往来していたのでしょうか?

CONTENTS

① 森におおわれた火山群

烏帽子火山群全景

地蔵峠の付近には湯の丸山をはじめとする成層火山や溶岩ドームが並んでいます。この山々が烏帽子火山群です。烏帽子火山群は、最東端の浅間山にかけて、おおむね西から順に火山活動が起こって火山や溶岩ドームを次々と作ってきた火山の集まりを言います。(烏帽子火山群の詳細は、 「03-① 出口を東に求めたマグマ」 をご覧ください。)火山群の古いものは約40万年前頃から活動を始め、約30万年前までに地蔵峠の西にある烏帽子火山、角間・鍋蓋火山などの成層火山と湯の丸溶岩ドームができました。その後活動の中心は徐々に東に移っていきます。地蔵峠の付近はこのように烏帽子火山群の中でも古い火山体でできており、現在は深い森林地帯となっています。北麓では、この地に降った雨が深い森林の高原を抜ける渓流となって、吾妻川の源流の一部となっています。
この地形を利用して、冬は地蔵峠の両側に湯の丸スキー場が広がっており、ウィンタースポーツを楽しむ人々が多く訪れています。また、冬季以外は、深い森林と渓流などを楽しむ自然散策や自然体験を楽しむ人々が多く訪れる癒しの地となっています。

② 温泉の癒しを求めて

地蔵峠から北に3kmほど下ると、県道沿いに温泉宿が見えてきます。鹿沢温泉です。火山の熱によって温められた温泉が湧出しており、標高1,525mにあるため、古くから 「山の湯」 として親しまれてきました。日本武尊が鹿を追って発見したとも、650(百雉元)年に孝徳天皇が発見したとも言われ、さまざまな伝承がありますが、 「加沢記」 によれば1562(永禄5)年頃には、すでに温泉場があったらしく、かなり古い時代から温泉が利用されていたことになります。
この 「山の湯」 が人々にとってどれだけ重要であったかということについては、様々な根拠があります。その一つは、祢津領と上州の国領の国境論争に関する多くの記録から分かります。大正時代までは地蔵峠の南麓に温泉は見つかっておらず、また、鹿沢の湯は古くから名湯として知られていたことから、鹿沢温泉のある場所の領地を巡って論争が絶えなかったのです。1701(元禄14)年に起こされた訴訟によって、国境は峰通しと定まり国境論争には終止符が打たれましたが、木草の利用と鹿沢の湯の支配権は信州祢津が持つこととなりました。信州側から鹿沢の湯を利用するためには、険しい地蔵峠を越えなくてはなりませんでしたが、それでも多くの湯治客がこの名湯を目指して足繫く通い、いつしかこの道は、 「湯道」 と呼ばれるようになりました。
1864(元治元)年に、湯道の安全を祈願して、東御市から鹿沢温泉までの約12kmの山道に百体観音の建設が始まり、一番から百番までの観音像が1丁(約109m)ごとに道路わきに安置され、1874(明治7)年に完成、百番観音開眼祝いが行われたとされています。当時の湯道は車が通ることができなかったため、戦後に地蔵峠を抜ける県道94号線が敷設され、1962(昭和37)年に完成しました。百体観音もまた、2年の歳月をかけて県道に移転され、1981(昭和56)年の像の復元などを経て、現在にその姿を残しています。
このように大勢の人々に親しまれた鹿沢温泉ですが、1918(大正7)年の大火によって焼失してしまいました。復興は厳しく、ほとんどの温泉宿が、鹿沢温泉から2㎞ほど下流に引湯した新鹿沢温泉へと移転しました。紅葉館のみがその地で復興し、鹿沢温泉ただ一軒の宿として現在も営業を続けています。
1926(大正15)年1月、京都帝国大学の山岳部がスキー合宿で紅葉館を利用しました。このときのメンバーは、後に第1回南極越冬隊長となった西堀栄三郎氏、京大カラコルム遠征隊長となった四手井綱彦氏、アフガニスタン遠征隊を勤めた酒戸弥二郎氏、チャチャヌプリ遠征隊長をした渡辺漸氏の4名でした。スキーで新鹿沢へと下り湯宿に宿泊した一行は、翌日天候が悪化して宿から出ることができませんでした。退屈まぎれに山岳部の歌をつくろうということになり、西堀氏を中心にアメリカ民謡 「いとしのクレメンタイン」 の曲に歌詞をつけていきました。このとき誕生したのが 「雪山讃歌」 です。現在でも紅葉館の向かいには雪山讃歌の碑が残され、嬬恋村の正午を告げる防災無線のチャイムには雪山讃歌が流れてきます。

山の湯百体観音雪山讃歌の歌詞

③ 自然の癒しを求めて

湯ノ丸レンゲツツジ群落たまだれの滝鹿沢園地

湯の丸高原一帯はもともと、カラマツやミズナラなどの原生林でした。そこに山麓のなだらかな地形を利用して牧場が開設されることとなり、樹木が伐採されました。1904(明治37)年からは牛や馬、羊などが300頭ほど放牧され、樹木は家畜の飼料となって草原化していきました。しかし、忌避植物(有毒植物)であったレンゲツツジだけは牛馬が食べずに残ったため、結果的にレンゲツツジの大群落が形成されることになりました。しかし、昭和50年代以降は畜産業が衰退し、牧場も廃止されました。それまでの牛を仲介としたレンゲツツジと他の植物とのバランスが崩れ、レンゲツツジは20万株ほどまで減少してしまったため、湯ノ丸レンゲツツジ保存会・嬬恋村教育委員会などが保護事業を行っています。現在、60万株を超えるレンゲツツジ群落が自生しており、6月中旬から7月上旬にかけて、高原を真っ赤に染めます。このレンゲツツジ群落は、自然と人の暮らしとが関わる生活文化史の一つの遺産としても位置づけられます。また、高原には希少な高山蝶も生息しています。これらはレンゲツツジ同様、地元のボランティアによる保全保護活動が行われるとともに、地域のNPOによる小中学生の体験活動などにも活用され、地域全体で学習や保護が進められています。
地蔵峠から新鹿沢温泉方面へ下ると、深い森林とその中を流れる渓流などの癒しの風景が広がります。県道沿いには湯尻川が流れ、鹿沢温泉と新鹿沢温泉の間には湯尻川遊歩道が整備されています。遊歩道の途中に 「たまだれの滝」 があります。苔むした岩を、沢の水が幾本もの白い絹糸を束ねたように流れ落ちる美しい景色です。湯尻川は嬬恋村内を流れる清流の一つで、生息する水生動物の種類数が最も多いことで知られています。
湯尻川を下流に進むと、嬬恋村田代地区に 「鹿沢園地」 と呼ばれる自然豊かな公園があります。自然学習歩道や野草園、インフォメーションセンター、情報ステーション、キャンプ場、湿原、宿泊施設休暇村などが整備され、豊富な種類の動植物の中で癒しや自然体験ができます。
湯の丸エリアは、古い火山が作り出した高原地形と大自然の癒しを全身に浴びながら、この地の成り立ちや人々の暮らしがもたらした豊かな風景を感じることができる、自然体験エリアなのです。

④ 農産業の発展を目指して

旧田代牧場嬬恋農場

鹿沢園地の自然学習歩道の一角に、高さ1.5mほどの台形をした土塁があります。これはかつて存在した田代牧場の跡で、湯尻川の右岸に沿って村上山の山麓を約1.8㎞囲むように見ることができます。旧田代牧場は、1909(明治42)年に開設され、面積約750町歩、放牧牛馬頭数600頭の大牧場でした。この当時、嬬恋村周辺ではまだ高原野菜が導入される前であったため、牧場による営みが中心で、キャベツやジャガイモもこのときはまだ自家用として少量栽培されている程度でした。
しかし、何とかこの地で農業を行い、地域を潤わせたいとの強い願いは地元の人々を動かしました。明治末期にキャベツが試験導入されます。1929(昭和4)年には田代地区の有志がキャベツの共同栽培を開始し、試行錯誤を繰り返しながら徐々に嬬恋村全体に広まり始めます。このころ、鳥居峠を越える現在の国道144号線が開通し、嬬恋から長野県への輸送ルートが整備されたため、キャベツの共同出荷が行われるようになりました。その後は栽培面積が加速度的に広がり、全国の人が知る現在のキャベツ生産地となっていったのです。
一方、第二次世界大戦後の食糧難の対策として、国を挙げて食糧緊急措置が行われる中、寒さに強い農作物として古くから嬬恋で生産されていたジャガイモの安定的生産を図るため、農林省嬬恋馬鈴薯原原種農場が設置されました。この地でのジャガイモ(当地では馬鈴薯と呼びます。)の生産は古く、江戸時代天明期ごろに導入されたと言われています。当時は馬鈴薯からとれる片栗粉を特産物として現金収入の大きな柱としていました。土地がやせていた嬬恋の地では、販売用のでんぷんを採取した後の馬鈴薯の絞りかすをも食料として利用していました。「くろこ」 と呼ばれる嬬恋の郷土料理です。農林省嬬恋馬鈴薯原原種農場は、その後の度重なる組織改編の末、2016(平成28)年から 「国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構 種苗管理センター嬬恋農場」 となって現在に至ります。馬鈴薯は、気象条件や土壌などの諸条件に対して適応性が高く、食用や加工食品としても用途が広いことから重要な畑作物とされていました。その一方で、塊茎を用いて増殖するため増殖率が低く、病気に罹るとそれが伝搬するという性質があるため、我が国ではウイルスフリーの種いもを効率的に増殖して流通できるシステムが取られています。その種いもの源流とされる原原種がこの地で栽培され、毎年全国に供給されています。

浅間山の火山噴火によって北麓一帯に広がっている火砕流や溶岩流、軽石や火山灰などの影響と、高地寒冷な気候条件によって、長らく農業生産に不向きな土地であった浅間山北麓地域ですが、それでも農業生産によって住民が潤うことができるよう、試行錯誤を繰り返し、ついに馬鈴薯やキャベツなどの高原野菜にたどり着きました。現在では、土壌研究も進歩し、火山がもたらす黒ボク土に手を加えることによって、農業生産に適した土が作られるようになりました。
火山が人の暮らしにもたらしていた負の要素を、人々の努力によって良い条件に変えていき、全国に誇る豊かな農業生産地となっていったドラマティックな物語があったのです。

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