05 苦労の結晶が拓いた地︱C 北軽井沢エリア

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応桑付近の国道146号線を走ると、点在するおしゃれな店とともに、不自然に盛り上がった丘のような地形が、道沿いや道から少し離れた畑の中など至る所で目に入ってきます。これは 「流れ山」 と言います。名前からは、流れる山? 流される山? でも、山ほど大きいものでもないし… 「流れ山」 とは、一体どんな 「山」 なのでしょうか?

CONTENTS

① 流れてきた山と黒い土

流れ山

北軽井沢の北にある応桑では 「流れ山」 が多くみられます。流れ山は、今から約2万4千年前に誕生しました。現在の黒斑山山頂の辺りから流れてきてこの地に流れ着いたのです。直線距離にして約17km。山のような大きな丘は、黒斑山が崩壊したときに大量の土砂とともに運ばれてきたと考えられています。最も大きなものは、馬見塚と呼ばれ、東西300m、南北400m、比高40mにもなる巨大な丘です。
黒斑山の崩壊では、黒斑山の山頂部分を含む東側全体が崩壊しました。勢いよく流れ下った巨大な岩や大量の土砂は、東側の高み(白糸の滝付近と推測されている)にぶつかり、南北に分かれて流れていきました。南は現在の佐久市塚原に多くの流れ山を作って千曲川に流れ込みました。「塚原」 の地名は、点在する流れ山を塚と呼び、塚が一面に広がる地というところに由来すると言われています。一方、北は長野原町応桑に多くの流れ山を作って吾妻川へと流れ込みました。大量の岩や土砂が吾妻川を流れ下り、渋川で利根川に合流してさらに利根川を流れ下っていきます。関東平野に入る前橋の辺りで川の勾配が緩やかになり、大量の土砂が一帯に堆積しました。現在の前橋台地はこのときに形成されたものです。浅間山(黒斑山)を形作っていた山体が遠く前橋台地を作った壮大な出来事が、2万4千年前に起こったのです。
応桑にある流れ山もまた、浅間山(黒斑山)の山体の一部です。流れ山の中には、それを形作っている岩がむき出しになっているものがあります。その岩は、まさに崩壊前の黒斑山の内部にあった岩なのです。黒斑山が何度も噴火を繰り返して大きな山となっていく過程で流れ出た溶岩や降り積もった火山灰などが固まってできた岩を応桑の流れ山で間近に見ることができます。そして、流れ山の上には、その後の噴火で飛ばされてきた軽石や火山灰が積もり、一番上の表面はそれらが風化してできた黒い土(黒ボク土)が覆っています。

浅間山全景

黒ボク土は、火山噴火で降り積もった火山灰などが風化するとともに、火山灰に含まれるアルミニウムが枯死した植物などの有機物と結合する性質を持つため、有機物を多く集積してできた黒い土です。日本国内は火山が多く、湿潤な気候によって植生も豊かですから、全国的に広く黒ボク土が分布していますが、世界的には全陸域の1%に満たないほど希少な土です。黒くてボクボクした土という印象から黒ボク土と名付けられたように、有機物が多いため丸まった粒状になり、風通し(通気性)が良く、水はけも良い、そして有機物が豊富という、一見作物の育ちにとても都合の良い土に見えます。しかし、火山灰に含まれるアルミニウムなどがリン酸と結びつきやすいため、黒ボク土はリン酸が乏しくなり、作物が良く育たないという欠点があります。
浅間山周辺では、昔から作物が育ちにくくやせた土地であることと、高地寒冷であったために畑作が発展しませんでした。ジャガイモなどの寒冷地でも育つ野菜を小規模に栽培するほかは、養蚕業や牧場、街道収入などに頼ってきた歴史があります。その原因の一つは、この黒ボク土の性質でした。しかし、リン酸が足りない以外は、畑作に良い要素が揃っています。そこで、人々は黒ボク土を畑作に活用できるよう、黒ボク土にリン酸を加えて畑作を営んだのです。昭和初期には寒冷地に適するキャベツなどの野菜を導入し、黒ボク土にリン酸を加えることによって、日本有数の畑作地帯へと発展していくことになったのです。

② 南木山(なぎさん)とその開拓

愛妻の丘から見た浅間山
浅間山の山麓は 「浅間高原」 と呼ばれています。しかし、昔はこの地域一帯を南木山と呼んでいました。南木山は地名としてはなくなりましたが、今でも地元では南木山の名を冠した会社や別荘地の愛称などで至る所に見ることができます。
南木山の名前は、日本武尊の伝説に由来すると伝えられています。―東夷を征伐した日本武尊はその帰り、碓井の峰に登ると、山に住む神が白鹿に化して立ち向かってきた。これを日本武尊が退けると急に霧が濃くなって道がわからなくなってしまった。すると日本武尊の前に一羽の八咫烏が現れて、目の前に梛木の葉を落として先導し、無事に峠に到着することができた。―というお話です。ここで登場した、日本武尊が霧で遮られた山が霧積山で、八咫烏がとまった岩が烏岩、そこから流れ出る川が烏川という地名になっており、この北西に位置する江戸幕府・明治政府の直轄地であった地域一帯を梛木山(なぎさん)と呼んだとされています。梛木は関西以南に分布する南方の木であったことから、表記が転じて 「南木山」 となったのではないかと考えられています。
もちろん、嬬恋や吾妻といった地名も、日本武尊が亡くなった妻・弟橘姫を偲んで発した 「吾嬬者耶(ああ、我が妻よ)」 から来ていることは有名です。この地の地名には、日本武尊の物語が深く影響していることがわかります。

南木山は、かつて江戸幕府や明治政府の直轄地でした。浅間山の雄大な景観とその山麓に広がる深い森は、鷹狩や薪取り、飼料の草刈りなどの適地であったのでしょう。範囲は鳥居峠から二度上峠までの東西3里南北1里の広大な面積でした。
明治時代に、それまで入域が認められていた山稼ぎが全面的に制限されると、周辺地域の人々は入域を求めて運動を起こします。明治29年には 「南木山御下渡請願」 を政府に提出して本格的な払下げ運動へと発展します。しかし、この広大で豊かな土地を政府も簡単には手放さず、長い運動の末、明治35年12月にようやく払下げを成し遂げました。
同じころ、明治政府の国策であった殖産興業、富国強兵によって洋服の需要が増え、明治15年に綿羊の供給と軍馬の養育地として、当時大日本農会の会長であった北白川宮能久親王が放牧場を南木山に開設しました。北白川宮能久親王の没後に南木山一帯が民間に払い下げられたことにより、放牧場を中心とする開拓地一帯は草軽電鉄や亀沢牧場、浅間牧場などの所有となり、本格的な開発が進むこととなったのです。
浅間牧場は、現在も800haの広大な土地が県営の牧場として運営されています。浅間牧場の大地には浅間山の噴火による噴出物が厚く積もっています。標高は約1,300mで北海道北部と同じような気候の特徴を活かした放牧がおこなわれています。また、昭和初期の歌謡曲 「丘を越えて」 のモデルとなった場所で、日本初のカラー映画 「カルメン故郷に帰る」 のロケ地になったことでも知られています。

浅間牧場「カルメンの木」概要

③ 旅人の難所の道しるべ

六里ヶ原の道しるべ観音

明治維新以前、人々の通行は徒歩が中心でした。険しい山岳に囲まれた浅間山北麓の地を通る人は、必ず険しい峠を越えなければなりませんでした。江戸から越後方面へは、浅間山南麓を通る北国街道よりも、距離が短く、費用も少なくて済む信州街道を歩む人も多くいました。また、軽井沢から草津温泉方面に抜ける道も多くの人が利用しました。これらの人々は、浅間山の北東側に広がる六里ヶ原を抜けなければなりませんでしたが、1783(天明3)年の浅間山噴火によって火砕流が流れ、草木もまばらで一面に岩の大地が広がる六里ヶ原は、旅人にとっての大変な難所でした。
1808年、旅人の苦労を見かねた分去茶屋の助四郎の発案で、この地を抜ける人々の旅の無事を願い、道を見失わないようにとの願いを込めて、地元の人々の手によって百体の観音像が建てられました。 「六里ヶ原の道しるべ観音」 と呼ばれています。百体の観音像は、分去茶屋の基点観音を中心に、沓掛・大笹・狩宿の三方向に33体ずつ、109mごとに設置されました。距離のスケールで用いられた 「丁」 という単位は、1丁がおよそ109mであったことから、観音像は1丁ごとに配置されていたことがわかります。このような道しるべ観音は、丁杭式観音とも言われており、浅間山北麓ジオパークの範囲には、湯の丸山を越える湯道(湯道の詳細は、 「06-② 温泉の癒しを求めて」 をご覧ください。)にも見られます。
百体の観音は、時の流れとともに徐々に失われ、残っていた30数体は北軽井沢の 「桜岩地蔵尊境内」 に集められ安置されました。 桜岩地蔵尊は1928(昭和3)年に北軽井沢に移転し、残った道しるべ観音もここに集められました。その後、1991(平成3)年に、地元の有志によって失われた観音像が復元され、桜岩地蔵尊には基点観音を含め100体が並んでいます。浅間山の天明噴火の影響を受けた人々が、それでも逞しく生きていく希望として建てられ、居を移してなお、現在まで人々の暮らしを見守り続けている道しるべ観音です。

旧草軽電鉄旧草軽電鉄 北軽井沢駅舎

大正に入ると、旅人の難所に新たな道しるべとなる鉄道のレールが敷かれました。
浅間山の北にある草津温泉は古くより名湯として知られてきましたが、明治の終わりころになっても交通が未発達だったため、交通の整備が急務でした。1902(明治35)年の南木山払下げによって、多くの民間企業がこの地に参入しましたが、その一つに草津軽便鉄道がありました。新軽井沢から草津温泉への鉄路を整備しようと考えたのです。1909(明治42)年に設立委員会が発足し、1912(大正元)年に草津軽便鉄道に社名変更、1913(大正2)年に起点の新軽井沢で着工、1915(大正4)年に新軽井沢-小瀬間が最初に開業して、1926(大正15)年に草津温泉までの全線が開通しました。ちょうど大正期には、付近で硫黄鉱山の硫黄採掘が盛んになり、人の輸送とともに、採掘された硫黄や周辺で採れた木材・農産物などの輸送にも活躍しました。1939(昭和14)年、草軽電気鉄道に社名を変更し、日本窒素硫黄株式会社の傘下になりました。
江戸時代から旅人を苦労させた標高の変化の激しい地での軌道敷設だったため、スイスの登山鉄道を参考にして、急曲線やスイッチバックを多用するなど、独特の技術が使われた高原列車としても親しまれました。しかし、1935(昭和10)年の渋川-草津間の国鉄バス運行開始を皮切りに、1945(昭和20)年には国鉄長野原線(現在のJR吾妻線)の開通、1947(昭和22)年に政府補助金制度の廃止、1949(昭和24)年・1950(昭和25)年・1959(昭和34)年に相次いで発生した台風災害などによって経営が圧迫され、1962(昭和37)年に全線廃止となりました。
草軽電気鉄道は、大正から昭和初期にかけて、交通に乏しかった浅間山周辺地域の観光や産業発展に多大な貢献をしただけでなく、現在に至る一大別荘地の礎を築き、豊かな人々の営みへの確かな足跡を残したのです。

④ 新天地を目指して

旧北軽井沢駅舎

1920(大正9)年、当時の法政大学・松室致学長は、草津軽便鉄道株式会社より北軽井沢周辺の273haの土地を取得しました。気候や自然環境に恵まれたこの地に、法政大学の教職員や学生を中心とした理想的な教育と共同生活の場をつくろうと思い立ち、教職員への土地分譲を計画しました。1928(昭和3)年夏に第1区40戸の山荘が建てられ、 「法政大学村」 が誕生します。その後、岩波書店創業者の岩波茂雄氏をはじめ、多くの学者・芸術家が村民となっていきました。1929(昭和4)年には、第2区40戸が分譲されました。また、大学村民の手によって地蔵川駅の駅舎が新築され草津軽便鉄道に寄付されました。駅名も北軽井沢駅となりました。現在でも残る旧北軽井沢駅舎には、このときに取り付けられた欄間に法政大学のイニシャル 「H」 がデザインされています。現在の北軽井沢一帯は、大正時代までは応桑・地蔵川と呼ばれていましたが、法政大学村ができたときに、すでに一大別荘地であった軽井沢の北の別荘地ということで 「北軽井沢」 と通称するようになり、長野原町は1986(昭和61)年に大字名を北軽井沢に変更しました。現在の大学村も、敷地を斜めに走る幅4m道路以外は舗装しておらずに開村当時のままで、午前中は他家を訪問しない、午前中と夜10時以降は楽器の演奏を差し控えるといった開村時からの不文律が受け継がれています。
第二次世界大戦後に農地解放が行われると、満州等からの引揚者が北軽井沢をはじめとする浅間山麓周辺に多く入植し、農地が開拓されていきました。地域にあるハイロン湖は、旧満州(現黒竜江省海倫)の地名が元になっており、かつて旧満州のハイロン郊外に入植した開拓団がこの地に入植して名づけたものです。当時、戦争や植民地など、国策に翻弄された開拓民の並々ならぬ努力と生きざまがこの地に残されています。
また、風光明媚で自然豊かな地域であったこの地は、1951(昭和26)年に、日本初のオールカラー映画 「カルメン故郷に帰る」 のロケ地となり、人気を集めるようになっていきました。当時運行していた草軽電気鉄道に乗って、この地を観光に訪れる人々も増えました。
このように、険しい山岳に囲まれた自然豊かで静かな北軽井沢の地は、この地形や穏やかな風土を愛する人の手によって、現在でも大規模な開発を行わず、農業地として、または観光地・保養地として、今でも趣そのままに人々の交流の地となっているのです。

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