04 浅間山がもたらした稀有な景観︱B 鬼押出しエリア

鬼押出し溶岩
「鬼押出し」 という言葉を聞いたことがあるでしょうか? 「鬼が押し出した?」 「鬼が押し出された?」 「いったい何が押し出された?」 という感じでしょうか。中軽井沢から嬬恋に向けて道を進むと、 「鬼押出し」 と書かれた大きな看板が目に入りますし、鬼押ハイウェー、鬼押出し園、鬼押出し溶岩など、浅間山の北から北東にかけて 「鬼押出し」 という言葉をたくさん目にします。
鬼押出しの言葉の由来は諸説ありますが、元来、地元では 「浅間山には鬼が棲み、鬼が暴れると浅間山が噴火する」 という言い伝えがありましたので、それと関係があるようです。1783(天明3)年の噴火の際に、浅間山(前掛山)の山頂から流れ出る溶岩流を目の当たりにした当時の人々は 「鬼が火口で暴れて溶岩流を押し出しているようだ」 と感じたところからその名が付いたとも言われています。
「鬼が溶岩を押し出した…」 それは一体どのような光景だったのでしょうか?

CONTENTS

① 鬼が押し出した溶岩

冬の浅間山吾妻火砕流国指定特別天然記念物溶岩樹形

今から200年以上も前に鬼が押し出したとされる溶岩は、今でもはっきりと見ることができます。その名も 「鬼押出し溶岩」 。浅間山の北側山腹を見上げると、ごつごつした岩のかたまりが山頂から山麓にかけて流れたような高まりを見ることができます。長さは5〜6㎞にも及び、岩のかたまりが幾重にも重なる圧倒的な光景です。噴火年代としてはとても新しく、それほど風化や植生の回復が進んでないので、流れて固まったままの溶岩を目の当たりにすることができるのです。浅間山北麓にある鬼押出し園や浅間園では、この鬼押出し溶岩の上を散策することができます。鬼押出し溶岩の中に立ち、周囲を見渡すと、おおよそ地球上とは思えない景色が広がります。一つの岩のかたまりは人の背丈を軽く超え、それらが幾重にも折り重なって数えきれない 「奇岩」 を作り出しています。この景色はすべて、1783(天明3)年に浅間山の山頂から流れて来たものだというのです。
江戸時代の浅間山北麓地域では、信州街道と呼ばれる北国街道の脇街道が通り、宿場町を中心とした街道文化が栄えていました。多くの人と物が行き交い、交通の要衝として発展しました。
ところが1783(天明3)年、5月から浅間山が噴火をはじめ、8月にかけて断続的に噴火を繰り返しました。噴火は次第に激しさを増し、8月4日(旧暦7月7日)には、軽井沢で噴石や積もった軽石で宿や民家にも被害が出ています。夕方には火砕流が黒豆河原一帯を焼き払いました。「吾妻火砕流」 と呼ばれています。吾妻火砕流は当時山麓に広がっていた森林を焼き払いながら火口から8kmの距離まで到達し、現在の黒豆河原付近に見られるような一面砂礫に覆われた荒廃地を作り出しました。森林地帯に流れ込んだ火砕流は、樹木を包んで積もりました。とても高温であったために、中の樹木は焼けてしまい、その焼け跡は穴になって残りました。「浅間山溶岩樹型」 と呼ばれています。溶岩樹型は他の火山でも見られますが、ほとんどは溶岩流が作り出したもので、ここのように火砕流が作り出した溶岩樹型は国内には数例しかありません。とても貴重なもので、国の特別天然記念物に指定され、地域住民のボランティアが落ち葉の清掃などを行い、大切に保護・管理しています。
8月4日から5日にかけての噴火は特に凄まじく、8月5日(旧暦7月8日)の午前には鎌原土石なだれが発生しました。土石なだれをおこした原因となった現象は、火砕流であったとも、水蒸気爆発であったとも言われ、その発生メカニズムは様々な学説があります。埋没した集落の遺跡には 「焼けた跡」 が見られないため、常温の流体が襲ってきたと考えられており、現在は火砕流が山腹の大量の土砂を巻き込んで流下したのではないかという説が主流となっています。鎌原土石なだれは、鎌原村をはじめ集落を次々にのみ込みながら吾妻川に流れ込みました。さらに吾妻川から利根川を100km以上も流下し氾濫させて1,500人近くの犠牲者を出す日本の火山史上最大級の災害となってしまいました。
鎌原土石なだれのあと、土石なだれによってえぐり取られた窪地に沿って火口から流れたのが鬼押出し溶岩流です。幅約2km、面積約6.8㎢で、火口から北へ約5.8㎞流れて止まりました。鬼押出し溶岩は、その後も長い間高温を保っていましたので、その末端からわき出した水はお湯となりました。当時の人々はそれを宿場のあった大笹まで引いて温泉として利用していたという記録が残っています。

② 浅間山を成長させてきた溶岩

浅間山火山荒原の植生

浅間山の北側山腹を見ると、火口から山麓に向かって流れる鬼押出し溶岩の圧倒的な光景が目に入りますが、それと同時に、他にも溶岩が流れた跡のような地形が見えます。比較的若い火山である浅間山(前掛山)では、1783(天明3)年以前にも、何度も噴火して溶岩流を流し、山体を成長させてきたのです。代表的なものには 「上の舞台溶岩」 「下の舞台溶岩」 「黒豆河原溶岩」 があります。それぞれ特徴的な名前です。
浅間山(前掛山)の3〜4世紀の噴火で流下した溶岩流が固まったものが 「下の舞台溶岩」 「黒豆河原溶岩」 、1108(天仁元)年の溶岩流が固まったものが 「上の舞台溶岩」 、そして1783(天明3)年の溶岩流が固まったものが 「鬼押出し溶岩」 です。山頂から流れ出た溶岩は、山麓にかけて傾斜が緩やかになると流れが遅くなり、一部は固まってたまっていきます。それによって、山腹よりも山麓の溶岩流が分厚くなり、ちょうど 「舞台(ステージ)」 のように、上部が平坦な地形を生み出しました。これが 「舞台溶岩」 の名前の由来です。下の舞台溶岩の上に上の舞台溶岩が重なって固まっています。地形や地質から大地の歴史を見るときは、下にあるものほど古く、新しいものが上に積もっていきますので、下の舞台溶岩のほうが古いということが分かるわけです。もう一つの特徴的な名前である 「黒豆河原」 ですが、どうやらこの地に川が流れていた・・・というわけではなさそうです。その成因には諸説ありますが、黒豆河原溶岩は火砕成溶岩とする説が有力です。激しい噴火によって火口付近に大量のマグマのしぶきが積もり、それらが高温で再び溶けて溶岩流のように流れ出したものです。前掛山の火口から北東の山腹で植生の乏しい一帯は 「黒豆河原」 と呼ばれています。川原石ほどの大きさの黒い岩がまばらに積もっている様子と、火山荒原に侵入しやすい高山植物のクロマメノキの群落が繁茂しているところから、この名前が付けられました。この一帯の岩石をよく見ると、黒い岩が中心ですが、赤茶けた岩も見ることができます。溶岩や火砕流が高温で流下・堆積したときに、空気中の酸素と結びついて酸化した、いわゆる 「錆びた石」 なのです。
前掛山最大の噴火となった1108(天仁元)年の噴火でも、溶岩流が流れました。「上の舞台溶岩」 です。1108(天仁元)年の噴火では、南北麓の広範囲に流れた追分火砕流とともに、上の舞台溶岩が流れました。先端部の厚さは40m以上もあり、下の舞台溶岩の上に重なるようにして、一段上の新たな 「舞台(ステージ)」 が作られたのです。近年、この溶岩流は火砕成溶岩ではないかという説が発表され、火山学的にも注目されています。上の舞台溶岩は、鬼押出し溶岩と並んで、流下した地形をはっきりと見ることができます。

③ 浅間山の成長と植生の回復を体感する地

下の舞台溶岩と植生

上の舞台、下の舞台、黒豆河原、鬼押出し・・・といったセンスあるネーミングの舞台となった前掛山の火口から山腹にかけてを一望できる場所があります。 「六里ヶ原の火山荒原」 です。特に鬼押ハイウェーの六里ヶ原休憩所に車を停めると、そこから見える光景は圧巻です。
六里ヶ原は浅間山の北斜面にある原野で、嬬恋村と長野原町の標高900〜1400m前後の裾野を指します。度重なる浅間山の噴火によって、軽石や火山灰が堆積し、火砕流や土石なだれ、溶岩流などによって植生が破壊され、火山荒原となっています。そのため、ごつごつした岩が一面に広がり、荒廃した土地に根付きやすい草や低木がまばらに生える程度の荒涼とした広い大地を見渡すことができます。高い木が生えていないため、浅間山の山頂から山腹にかけての地形を一望することができ、上の舞台溶岩、下の舞台溶岩、黒豆河原溶岩、鬼押出し溶岩が流れ固まった跡がはっきりと見える貴重な場所となっています。有史以前の山体に、大規模な噴火のたびに溶岩が堆積して、浅間山が成長している様子がよくわかります。
また、六里ヶ原は荒地から植物がどのように成長し、森林へと変化していくのかを知ることができる場でもあります。火山噴火によって一度植生は完全に失われてしまいます。この荒地は、土壌や栄養に乏しいため、すぐに種子植物やシダ植物が生えることはできません。まずは地衣類や岩の隙間の水分を利用できるコケ類などが定着することになります。これらの植物が枯死して少しずつ栄養のある土壌がたまってくると、草の仲間や高山植物が生えるようになってきます。これらの植物は更なる豊かな土壌を作ってくれます。そうなれば、さらに多様な草本類、低木、陽樹林、陰樹林へと植生が回復していきます。六里ヶ原周辺では、まだ植物がほとんど見られない場所から、噴火の影響をほとんど受けずに深い森林地帯となっている場所まで見ることができますので、この一帯を散策するだけで、何十年、何百年もかけて回復する植生遷移の過程を観察することができるのです。

浅間山の噴火によって、多くの災害が発生してしまいます。鬼押出し園にある 「蜀山人の碑」 は、1783(天明3)年の大災害の後に、天明期の江戸狂歌の中心であった蜀山人が撰文と揮毫を担った災害碑であり、浅間山噴火が人々に与える恐ろしさと、それでも偉大な浅間山を愛でる気持ちがよく表わされています。
そして噴火の跡は、時を経て、私たちの心を潤す景観を与えてもくれています。浅間山の山頂から山腹にかけての一帯は、緑豊かな日本にあって、この世のものとは思えないような荒涼とした風景を見せてくれます。また、その上に広がる溶岩流の流れた跡は、いかに人がちっぽけな存在かを感じさせる大地変動のダイナミックさを見せつけています。その景色の中を散策したとき、日常とは切り離された時間を過ごすことになるのです。

蜀山人の碑

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