03 大地変動の物語︱A 山頂エリア

●●●●●
浅間山を眺望すると、浅間山からほぼ西の方角に向けて山脈が連なっている様子を見ることができます。一連の連なりの西端が烏帽子岳、東端が浅間山で、全体を浅間・烏帽子火山群と呼びます。浅間・烏帽子火山群の北側には、浅間山北麓ジオパークのある浅間高原が広がり、南側は中山道や旧北国街道が通った長野県東部の高原地帯です。
高原地帯に挟まれてほぼ東西に直線的に並ぶ火山群は、一体どのように作られてきたのでしょうか? そして、それらは周辺の高原地帯に何をもたらしてきたのでしょうか?

CONTENTS

① 出口を東に求めたマグマ

高橋, 2003, 日本火山学会第10回公開講座

烏帽子火山群は、群馬県と長野県の県境付近を東西約22kmにわたって列を成す火山の集合体を呼び、西端に烏帽子火山、東端は浅間山(黒斑山)と接する高峰火山付近までを指します。
今から約100万年前に火山群の西端あたりで火山活動が活発になり、約40万年前頃から、まずは烏帽子火山、角間・鍋蓋火山、三方ヶ峰火山、高峰火山などの成層火山と湯の丸、桟敷・小桟敷溶岩ドームが誕生しました。その後、マグマは出口を求めて次第に東へと活動の中心を移動します。約13万年前頃からは水ノ塔火山、村上溶岩ドーム、東篭ノ登・西篭ノ登溶岩ドームが相次いで誕生しました。そして、約10万年前以降に活動を始めたのが、浅間山の一つである黒斑山です。
このようにして、烏帽子火山群は約100万年前に活動を開始してから、東へと活動の中心を移動しながら多数の山を生み出して現在のようにおおよそ東西方向に一列に並ぶ山脈を作ってきたのです。我らがシンボルの浅間山もまた、この一連の火山活動の最も新しい火山として誕生し、現在もなお活発な活動を続けているのです。

② 今はなき巨大な湖の盛衰

●●●●●
烏帽子火山群にある山々の誕生は、周辺の地形にも大きな影響を与えました。今では一級河川として悠々と水を湛える吾妻川もその影響を受けた一つです。
現在の鳥居峠付近に端を発した吾妻川は、烏帽子火山群ができる前までは、浅間山北麓ジオパーク東端を南北に走る古期火山列にさえぎられて現在のような東流ではなく、南に向かって流れていたものと考えられています。しかし、烏帽子火山群が数十万年の年月をかけて東へと延びて火山列を作ったため、東の火山列と南の火山列に囲まれた吾妻川は行き場を失ってしまいました。堰き止められた川の水は、流域の低い土地にたまっていきます。こうして巨大な湖が誕生しました。「古嬬恋湖」 と呼ばれています。諸説ありますが、古嬬恋湖が存在したのは今から約20万年前頃と言われています。ちょうど三方ヶ峰火山や水ノ塔火山などが誕生し始めた頃になります。
行き所のない水がたまり、湖は徐々に巨大なものとなっていきます。古嬬恋湖は最大で、東西11.5km、南北9km、水深300mを越えていて、東は現在の長野原町与喜屋、西は嬬恋村田代、南は長野原町応桑から嬬恋村大前、北は中之条町六合赤岩あたりまで広がる広大な湖であったと考えられています。
しかし、いくら巨大な湖でも、いつまでも水をため続けることはできません。湖の縁のうち最も標高の低かった場所に出口を見つけ、吾妻川の新たな流れを作り出していきました。このとき見つけた出口は、おそらく現在の流れとなっている東の吾妻峡の方面であったと思われます。その後、徐々に縮小し古嬬恋湖は幻の湖となりました。一方、新たに水が流れ始めた吾妻峡付近は、硬い岩盤であるにもかかわらずV字型に侵食され、現在のような自然の造形美を生み出したのです。
約20万年前と言えば、ちょうど現人類が誕生した頃と言われていますが、時の流れに伴う大地の変化にも想いを馳せてみたらいかがでしょうか。

③ 浅間山の長老・黒斑山

黒斑のカルデラ壁と前掛山

烏帽子火山群の東側で火山活動が始まったのは約10万年前頃からと考えられています。浅間山が産声をあげたときです。すでに吾妻川は新たな流路を見つけ出し、固い岩盤を削っていた頃になります。
「浅間山」 と総称していますが、実は黒斑火山、仏岩火山、前掛火山(以下、それぞれ 「黒斑山」 「仏岩」 「前掛山」 と言う。)の3つの火山体をセットで呼んでいる名です。現在も活発な噴煙を上げているのは前掛山。約10万年前に最初に活動を始めたのが黒斑山です。黒斑山は、烏帽子火山群の多くの山と同じように、噴火して溶岩を流すことを繰り返してできる 「成層火山」 と呼ばれるきれいな円錐形の火山でした。
ところが、約2万4千年前の噴火で大規模な 「山体崩壊」 を引き起こし、山の東側半分が崩れ落ちてしまいました。(黒斑山山体崩壊の詳細は、 「05-① 流れてきた山と黒い土」 をご覧ください。)磐梯山や北海道駒ヶ岳など、山体崩壊を起こした火山の山頂付近は、 「馬蹄形」 をしています。上から見ると、馬の蹄のようなUの字型に見えるのです。黒斑山にも同様の形が見られます。黒斑山西側に見られる剣ヶ峰、牙山、トーミの頭、黒斑山、蛇骨岳、仙人岳、Jバンド、鋸岳は、まさに 「馬蹄形」 に並んでいて、登山道からもよく見ることができます。また、馬蹄形と前掛山の中に囲まれた場所は、見通しの良い窪地になっていて 「湯の平」 と呼ばれています。ここは、急峻なアップダウンを繰り返してきた登山者にとっては平坦で目の前が開ける憩いの場にもなっており、高い標高と冷涼な気候による高山植物があふれる魅力的な場所です。
かつて湯の平には日本初の火山観測所がありました。気象庁の 「浅間火山湯の平観測所(1923.11.1-1929.9.30)」 です。1947年8月の噴火によって焼失し、現在は存在しませんが、今から約100年も前から火山活動を監視し、研究と防災に役立てていた日本の火山観測の先駆地であり、歴史を感じられる場所です。
黒斑山は、浅間山の中では最も古く、剣ヶ峰や鋸岳など活動期の荒々しい姿は残しつつも、現在は多様な高山植物を抱く 「浅間山の長老」 なのです。

④ 浅間高原の礎を築いた仏岩

トーミ断層 追分火砕流 嬬恋高原キャベツ畑

黒斑火山の火山活動は、山体崩壊後に急速に衰え、約2万1千年前頃には終息したとみられています。代わって約1万7千年前頃から活動を活発化させたのが 「仏岩火山」 です。特に1万5千年前〜1万3千年前の噴火は、黒斑山から続く一連の浅間山の活動の中で最大規模の噴火でした。大量の火砕流を流し、山頂から見渡せる限りの地域を埋め尽くしました。また、噴き出した軽石や火山灰は偏西風にのって北関東一円に積もり、関東ローム層の一部となっています。
仏岩の噴火の力は、黒斑山の山体にも 「断層」 という形で深く刻まれています。車坂峠から黒斑山に向かう登山道から見られる 「トーミ断層」 です。これは浅間山の地表に見られる最も大きな断層で、仏岩の最大規模の噴火によってできたものと考えられています。
嬬恋村大笹地区から袋倉地区にかけての吾妻川右岸には、厚さ50m以上ある切り立った淡黄色の崖が見えます。火砕流の堆積物はやわらかく、川によって侵食されやすい特徴があるので、この仏岩の噴火で積もった火砕流の堆積物を吾妻川が削った崖だということが分かります。この崖の前に立つとき、噴火の規模の大きさに圧倒されることでしょう。
このときの火砕流が丘や谷を埋めて広く積もったため、現在、浅間高原と呼ばれる一帯は、平らな地形が広がっています。この地形は畑作に最適で、ここに、日本一の夏秋キャベツをはじめ、高原野菜の一大産地が生まれました。また、高地冷涼な高原は、自然豊かなリゾートの地として、日本有数の別荘地も築かれました。
いま起これば、信じられない程の大災害となる仏岩の噴火でしたが、私たちはその恩恵をうまく生かして、豊かな暮らしを送っているのです。

⑤ 若さあふれる前掛山

シラハゲ千トン岩

浅間山史上最大の噴火の後、仏岩の活動は急速に衰えていきます。代わって約1万年前頃からは、前掛山で活動が始まります。前掛火山は現在まで活発に活動していて、噴火のたびに降り積もる軽石や火山灰、溶岩流、火砕流などの堆積物によって成長を続けています。今では、仏岩はこの若い火山にその姿の大半を覆われてしまっています。
浅間山の長老である黒斑山とこの若い前掛山は、見た目にもその違いがはっきり分かります。黒斑山の表面には、谷が山頂から山麓に向けて何本も走っています。まさに時を経て、顔にしわが刻まれた長老そのものです。活動を終えてから約2万年の間に、雨水などで侵食されて谷が形作られました。一方、若い前掛山の肌は張りがあって滑らかです。今でもたびたび噴火をしては軽石や火山灰を積もらせていて、まるでお化粧をしているかのようです。山頂付近には植生もほとんどなく、冬に雪が積もると、山頂全体が雪で覆われてとてもきれいです。また、黒斑山の鋸岳北斜面には、幅200mほどの 「シラハゲ」 と呼ばれる、周辺の緑の森林とは異なる白い部分があります。シラハゲの大部分は仏岩が降らせた軽石であり、その上部を前掛山の噴火で降り積もった軽石や火山灰が覆っています。とてももろくたびたび崩壊するため、噴火で降り積もった堆積物がむき出しになって白く見えるのです。
前掛山が活動をはじめた約1万年前は日本は縄文時代でしたので、前掛山の活動は人々の暮らしに直結していきます。約8千年前頃、約5千年前頃にも大規模な噴火が発生していたことがわかっていますが、歴史時代にも3〜4世紀頃、西暦1108(天仁元)年、1783(天明3)年に大規模な噴火が発生しています。前掛山の山頂から山麓にかけては、これらの噴火で流れた溶岩流が固まり、舌のような盛り上がり地形をはっきりと見ることができますし、火砕流や降り積もった軽石、火山灰も山麓の至る所で見られます。 1783(天明3)年の噴火以降も現在までに大小合わせて50回を超える噴火が記録されています。1950(昭和25)年9月23日の噴火では、巨大な噴石が火口から飛び出しました。高さ5m以上で推定3千トンもあるこの巨大な岩は、北側山麓から浅間山の山頂を見上げると斜面に突起のように見えます。地元では 「千トン岩」 という愛称で呼ばれ、火山噴火の巨大なエネルギーを感じられるシンボルになっています。このように前掛山は、まだまだ火山としては若く、これからも活発な活動が続くものと考えられています。ですから、過去の浅間山の活動を振り返り、ふもとで生活を営んできた先人たちの暮らしから学び、今後起こるであろう浅間山の噴火に備えることは、この地に暮らす私たちの宿命なのです。

浅間山がひとたび噴火すると、溶岩流や火砕流、軽石、火山灰などに覆われて生態系は失われ、大規模な噴火では人の暮らしも大きな被害を受けます。しかし、動植物も人もそこから時間をかけて再生し、その生育・生活環境を取り戻してきたのです。これまで見ていたように、私たちには想像もつかないようなダイナミックな変動を遂げてきた浅間・烏帽子火山群ですが、特に前掛山の活動以降、この地で人が暮らしを営むようになってからは、浅間山による災害と復興を繰り返しつつ、噴火による恵みをうまく活用しながら豊かな暮らしを築いてきました。
この大地と人が織りなしてきた物語は、また別の章で詳しくお伝えします。

● ジオストーリー INDEX

ジオサイトに戻る