02 概要

災害と復興がつなぐ人々の営み

浅間山北麓ジオパークエリアマップ
浅間山北麓ジオパークを地図で見ると、四方を険しい山々に囲まれていて、その中央を東西に川が横切る独特の地形がわかります。西部から南部にかけての山脈は、日本海に流れ込む川と太平洋に流れ込む川を分ける 「中央分水嶺」 を成し、浅間・烏帽子火山群の東端にある浅間山は、日本を二分する大地溝帯 「フォッサマグナ」 の北部に位置します。まさに、日本の大地を分ける交差点にあるのが、この浅間山北麓ジオパークです。

ここは激しい変動を繰り返してきた大地でもあります。フォッサマグナという巨大な変動帯の中にあって、四方を囲む山々は隆起・噴火によって誕生した火山で、現在も活発な活動を続ける浅間山をはじめ多くの噴火で流れ、または降り積もった堆積物が浅間山北麓ジオパークの大地を形作っています。吾妻川が流下する北東部を除き、ほとんどの地域が標高800m以上の高地で、西は浅間山から出た火砕流が覆って凹凸の少ない高原地帯、東は浅間・烏帽子火山群形成以前の基盤に浅間山による流れ山が点在するなど、起伏に富んだ地形となっています。
大地鳴動の影響を強く受けてきたこの地で人が暮らすのは容易ではありませんでした。縄文時代の遺跡は予想以上に多いのですが、弥生・古墳時代の遺跡は周囲に比べると少ない特徴があります。冷涼地のために当時の人が暮らすのに適さなかったのか、歴史時代の度重なる浅間山の噴火によって埋もれてしまったのかは諸説あり、はっきりとはわかりません。1108(天仁元)年の浅間山大噴火の後、山岳信仰によって山で修業を行う修験者が平安時代末期にこの地に移住し、開拓がはじまったという記録があります。この地を通るために険しい山岳地帯を越えなければならないため、天然の要害となっていましたが、戦国時代には大名同士の激しい争いに巻き込まれていきます。平和を取り戻した江戸時代には、この地にも街道が伸びて、多くの人々が行き交う宿場町を中心とした街道文化が発展します。噴火堆積物に覆われたやせた土地でありながらも、馬鈴薯などの寒冷地でも育つ作物の畑作や宿場町の収入などで、人々は暮らしを営んでいました。
しかし、1783(天明3)年に浅間山が大噴火を起こし、この地の人々の暮らしを破壊しました。中でも鎌原土石なだれは浅間山の山腹から北麓一帯を襲い、吾妻川に入って泥流となった流れは、吾妻川が流れ込む利根川を流れ下り、流域に洪水を引き起こすなど広範囲に大規模な災害を引き起こしました。浅間山北麓の多くの集落が被災しましたが、当時宿場町のひとつであった鎌原集落では、人口の80%以上の住民が亡くなる被害にもかかわらず、その地で集落を復興し人々の暮らしを再生しました。現在でも鎌原集落ではこの歴史を今に伝えています。
近代になると、浅間山北麓ジオパークの周辺で硫黄採掘が始まり、国内有数の生産地となります。また、大地とともに暮らしてきたこの地は、自然豊かで風光明媚な景観をもち、火山活動に伴う温泉が古くから営まれ、冷涼な気候は避暑地として、観光業が発展していきます。さらに、大正時代には草津温泉と軽井沢という一大観光拠点を結ぶ草軽電気鉄道が開業し、中継地である北軽井沢や嬬恋南部では国内有数の別荘地が形成されました。かつて南木山と呼ばれ、江戸幕府や明治政府の直轄地であった浅間山北麓の高原地域は明治後期に民間に払い下げられ、牧場や農場、別荘地となっていきます。第二次世界大戦後には、戦地から引き揚げてきた人々が南木山地区を開拓して暮らしを営みました。一方で、やせた土地のせいで、農業はなかなか発展しませんでしたが、地元の人々は試行錯誤を繰り返し、昭和初期にキャベツなどの高原野菜が導入されました。人々はさらに努力を重ね、現在ではこの地の基幹産業の一つとなるまでに発展しました。夏場の気温や昼夜の温度差がおいしいキャベツ栽培に最適で、現在この地で採れる夏秋キャベツは全国の総出荷数の半分を占めるまでになりました。
決して豊かではなかったこの地で、試行錯誤を繰り返し、時に大地の強大な変動に翻弄されながらも、現在の豊かな暮らしを手に入れてきた人々の営みや教訓は、地域の未来を担う子どもたちに受け継ぐとともに、天変地異の相次ぐ現代においては、他の地域に暮らす人々にも、大地と仲良く豊かに暮らすヒントを与えるものになっています。大地の活動を含む過去を総括し、一層豊かな未来をつくっていくために、当地は 「浅間山北麓ジオパーク」 としての新たな歩みを始めました。ジオパーク活動が地域内外の多くの人々の手によって広がっていくとき、浅間山北麓ジオパークの歩みもまた、当地のジオストーリーとして語り継がれていくことになるでしょう。

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