蜀山人の碑

1783(天明3)年の噴火の際、その救助に奔走し、私財を投げ打って物心両面にわたり、 災害復旧に大きな貢献をした大笹宿問屋の主人黒岩長左衛門(大栄)は、当世、狂歌の第一人者であった 蜀山人(四方赤良)に、碑の撰文(せんぶん)と揮毫を依頼し、災害碑の建立を志した。しかし、長左衛門は 程なくして亡くなり、その実現は中断してしまったが、その子佗澄は1816(文化13)年に亡父十三回忌の 手向けとして、大笹宿の中程の長左衛門宅の向かい側、山裾の急斜面の一部を削平し、碑を建て 「大笹駅浅間碑」とした。碑は2mに達する大きな安山岩の自然石で、その表面には和歌を交えた12行にわたる 本文と記年銘、そして蜀山人、大栄の名を記し、さらに佗澄の1文を添えている。